2011年3月11日、インド

2011年3月11日、インド

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Published
March 11, 2023
2011年3月のインド旅を振り返るシリーズです。 前回はこちら

2011年3月11日@ジャイサルメール

この日の日中はのんびりと市内をぶらついて、午後にはデリー行きの夜行列車に乗る予定だった。初日のデリーから3回に分けて移動してきた距離を一度に移動するだけあって、18時間移動の長旅となる。
まず朝一でその辺のネットカフェを見つけてインターネットに接続し、Twitterでいつもと変わらない日本の様子を楽しんだ。
 
ネットカフェを出た直後、仙台に住む母親からわざわざ国際SMSでメッセージがくる。「大きな地震があったが、家族は無事です」とのこと。心配性な母親は震度4-5くらいの地震でわざわざメッセージを寄越しそうな性格なので、今回もそれくらいの地震が起きたんだろう。
適当な返信をして、その後は雰囲気の良さそうなレストランに入ってしばらくのんびりした。砂漠を望む眺望が素晴らしい。料理も安くて最高だった。
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そろそろ駅に向かおうかとしていたところ、テレビを見ていたレストランのオーナーに声をかけられる。
曰く、「おい、トーキョーがヤバいぞ」とのこと。古いブラウン管テレビには、砂嵐のようなノイズとともに、どこかの国の湾岸の工場地帯に津波が押し寄せる風景が、かすかに映し出されていた。
よくテレビで「海外の災害」としてよく見るような映像だなあなんて暢気な感想を覚えた。さっきTwitterでみたいつも通りのタイムラインが頭をよぎり、そして東京にはこんな雰囲気の工場地帯はないだろうという思いから、およそこれが日本の映像だとは思わなかった。またインド人が変な言ってるのだろう。インド人の9割は嘘つきだ。適当なことを言ってインド人オーナーをあしらい、レストランを後にした。どうせ東南アジアのどこかの国の災害の話をしていたんだろう。
 
レストランを離れ、ホテルでバックパックを回収して駅まで向かう道のり。欧米人らしきバックパッカーが自分の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「あなた日本人!?日本が大変なことになってるわよ!あなたの家族は無事なの!?」
この時からようやく、本当に日本で何かあったのかもしれないということに思い当たる。インド人が言っていたことも本当かもしれない。
とはいえインド人の彼は東京がどうのと言っていたし、母親も大丈夫だと言っていたし、地元の仙台は問題ないのだろう。列車の出発時間も迫っており、ネットカフェに立ち寄る時間はない。心配してくれた欧米人に、「ありがとう。家族は無事です。maybe。」そう伝えて、ジャイサルメール駅へと向かう。
 
東京で地震か。震度はどれくらいだろうか。海外までニュースになるくらいだから、かなり酷いのかもしれない。とはいえ、関東大震災の時代じゃないんだし、免震も耐火もしっかりされてるはずで、深刻なことにはなっていないだろう。人が亡くなっていないことを祈りたい。
そんなことを考えながら駅で列車に乗り込もうとしてると、同じくデリーまで向かう日本人大学生がいたので仲良くなった。日本の災害の話をすると
「なんか東北で何かあったらしいっすよ。俺もよく分からないんすけど」
は、東北?東京じゃなかったのか?
心臓が跳ねたのを感じた。
 
そこからの18時間の移動中、異国の地の列車で一切の情報に接続できない中、色んな思いがグルグルと頭をよぎった。
もし東北という情報が正しいとして、あの映像はどこだったのか。あんな工業地帯があって、あんな津波が来るのは、なんとなく太平洋側の宮城や福島な気がする。宮城にあんな津波が来るレベルの災害があったとしたら?地元の仙台中心部は内陸だから津波の影響はないとして、とはいえ皆は無事なんだろうか?仙台にいる彼女は無事なんだろうか?もしたまたま沿岸部にいたら?もし無事じゃなかったら?無事じゃなかったら、つまり、もう彼女には会えないということか?それはつまり、どういうことだ?
そんな思考をグルグルと繰り返す。
 
浅い睡眠、深夜でも早朝でも何度も知らない駅に止まる列車。忙しなく出入りを繰り返すインド人達。けたたましく叫ぶチャイ売りの男。
人生の中でもおそらく最悪に近い18時間を、狭いコンパートメントの中で過ごした。
 
ようやくデリー駅に着くと、早歩きで列車を飛び出した。行き先はネットカフェ一択だ。途中、何人かの日本人に会う。
「なんか宮城で大きい地震があったみたいですよ」
もはや早歩きではなく、バックパックを背負って走り出していた。
 
ようやく辿り着いたデリーのネットカフェで見たニュースは、想像を超える、いや想像通りの、最悪のニュースだった。
こうして、2011年3月11日、地震発生から24時間ほど遅れて、東日本大震災の全容をやっと把握した。
 
数日後の現地の新聞。およそ日本の出来事とは思えなかった
数日後の現地の新聞。およそ日本の出来事とは思えなかった
 
ここから先は記憶も朦朧としてるのでざっくりと。
ニュースとTwitterを読み漁り、大学のサークルのメーリングリストをチェックし、遠く離れた異国の地で、一通りの状況を把握した。
壊滅的だった沿岸部に比べて、自分が住む仙台市内はそこまでの被害ではないらしく、周りの友人たちもどうやら無事なようだった。しかし当時3年間付き合っていた彼女とだけは一向に連絡が付かず、メールを送ってから24時間経っても返信がなかった。みんな大変なところ本当に申し訳ないと思いつつ、彼女と親しい友人たちに行方を知っているかをメールして回った。
結局、2日ほど経ってから彼女から無事連絡が届いた。帰国後に彼女とこの話をしたところ、「携帯の電池が勿体なかったから連絡しなかった」と言われた。滅多に喧嘩をすることのない仲だったが、流石に一言くらいは連絡をくれても…と少し喧嘩をした。
 
ともあれ、親しい友人たちは全員無事で、知り合いで被害にあったのは、大学の部活動(200人規模)の後輩が1人亡くなっただけだった。
そう、数回話したことがあるくらいの後輩が、亡くなった「だけ」。
知り合いが亡くなったことを「だけ」と言ってしまいそうになるのが最低だなという気持ちと、被害がそれで済んで本当に良かったという気持ちと、それも含めてやはり最低だなという気持ちと、色んな思いが入り乱れた。
 
元々はデリーをすぐに出発して次の街に観光にいく予定だったが、そんな気分には一切なれず、数日を何をするともなく、同じ宿の日本人達と声をかけあいながら、ただネットで新しいニュースをチェックするだけの日々を送った。インドに来てから毎日一眼レフで撮っていた写真も、3月11日以降はしばらく1枚も記録に残っていない。
 
 
途中、2日目に会ったデリー大学の日本人大学生達と落ちあって、日本についての情報交換をした。彼らは自分と違って地元が被災地ではなかったものの、災害について真剣に考えてくれていた。
「俺たちは今インドにいるし、遠く離れているし、何かができるとは思わないけど、でも、何かしてあげられることは無いか教えてほしい」
自分はリアリストなので、彼らの言う通り、この地から何かができるとは正直思わない。
でも、その気持ちだけでも温かい気持ちになることをこの時感じた。
 
 
 

2023年3月11日

どこかのタイミングで震災のことを振り返ってみたいなとしばしば感じていて、今年こそはと思い筆をとってこの記事を書いている。
 
正直なところ、自分の人生そのものには、結果として、この災害は大きな影響を与えていない。2ヶ月程度の非日常があったくらいで、それ以外は特に何も影響はなかったと思う。
しかし、それで終わらせたくないという気持ち。あの日、夜行列車の中で味わった不安と無力感。こんな時に何かをできる人でありたいと言う思いは、この12年間常にあった。
 
「誰かのために、人は何かをしなければならない」とは、正直思っていない。 それを臆面なく、正しいことであるかのように言うのは、「持っている人」の驕りだ。世の中の多くの人は、自分の人生に精一杯で、誰かのことを気にしてる余裕なんてない。そんな普通の人の事情を無視して「誰かのことを気にできる人が立派だ」みたいな言説をするのは、とても嫌いだ。それを言える人は、自分の人生に余裕があるからだし、それが普通のことだと押し付けられる「余裕のない人」の気持ちになるべきだと思う。世の中の多くの人がやるべきは、誰かを幸せにすることではなく、自分自身がまず幸せになることだ。
 
その上で、ちゃんと自分が幸せになった上で、困っている誰かの力になりたいと思う。今の自分は昔と比べてだいぶ幸せだ。…というと昔が不幸だったようなので言い直すと、昔と比べて「自分の人生について満ち足りた感覚」を持っている。だから、もう少し自分以外にも自分のリソースを割り振っていきたいような、いやでもまだまだ自分自身のためにやりたいことがあるような、その2つは結局同じことのような、そんなことを思っている。
自分が自分の人生でやりたいと考えているのは、世界の幸せの総量の最大化で、それはつまり自分と周囲と世界を幸せにしていくことだ。自分が幸せになれたのなら、次は周囲や世界を幸せにしたいと思う。
その手段が震災の話に直接つながる必要性はなく、自分が自分の能力を最大限活かしてそれができれば良い。
 
震災後、仙台に戻ると、周囲の何人かは沿岸部の被災地のボランティアにいったりしていた。自分は迷いつつ、結局行かなかった。行っても良かったし、やらない善よりやる偽善のような思想を持っているし、ボランティアを否定するつもりは全くない。
しかし、自分ができることは本当にボランティアなのか?と問われると、それよりも自分のやるべきことをやるべきだと感じた。当時の自分にとってのそれは研究活動で、自身の研究が直接役に立たなくても、50年後に同じことがあった時に、それを防ぐための科学の進歩の一端を間接的に担えてれば良いと思った。その一端の0.01ミリくらいは担えている自負があったし、その方がボランティアよりも幸せの総量に寄与できる気がした。何より、研究が役に立たなくても、そこで得た経験を持って、50年後の自分が何か役立てれば良いと思った。
結局その後、自分の専攻分野(自然言語処理、平たく言えばAI)のトップカンファレンスに当時の国内最年少で論文を通したり、この時の頑張りが効いたような気もするし、近年のAI分野の急速な進歩を見ると自分の研究は大して役になってない気もするし、でもまあ経験はやはり色んなところに活きているなと思う。
 
とりとめもなく思ったことを書いているので特に気の利いたことは言えないが、ここらでまとめて終わると。
震災に限らず何かができる自分になりたいと思ったし、その手段は自分の能力を最大限活かしたものであるべきだし、そうしたいと思った。
そして今も同じ思いを抱きつつ、いま割とできている気がする。そしてこれからもそうありたい。
そんなことを思っている。
 

その後のインド旅

遠く離れたインドの地で自分が落ち込んでいても、日本の困ってる人達の何の役にも立たないなと思い、しばらくしてから旅を再開した。
列車の中でインド人に慰められつつ、いや慰めてるのかと思ったらなんか自分の家族の自慢だったりしつつ、その後も色々な人に会って、いろんな場所に行って、陸路でネパールに入国して、ネパールは人も食べ物も優しくて感動して、ヒマラヤ山脈のふもとの村で泊まって朝日を見て、震災後20日間の旅をして、帰国したら麻薬所持の疑いで税関の裏に連れていかれて、一ヶ月くらい春の京都で過ごしてから仙台に帰った。
仙台では震災の影響で両親が転勤して実家で一人暮らししたり、研究室の建物が壊れて他の建物で研究したりしつつ、徐々に日常に戻っていった。
 
インドは「二度と行きたくない」「また行きたい」という2択に意見が分かれるらしい。自分としては、どちらの感想もあるという気持ち。
震災のこともあって余計に強く印象に残ってしまったインド旅だったが、また久々に訪れてみたいなあと思っている。
 
ということで、長文を読んでもらった方どうもありがとうございました。
前半を読んでない方はそちらもぜひ。